![the crankcase motorcycle tours](code/crankcase_logo.jpg)
バイクツアー ドイツ 欧州 クラシック ドゥカティ ビモータ スーパーバイク 体験
日本での初ライディング:伊豆スカイライン
![Guided motorcycle touring holiday in Europe contract motorcycle designer - First time to ride in Japan on the Izu Skyline](images/contact ian/Ian_thecrankcase_Izu_skyline_Honda_Shadow.jpg)
ケンブリッジ~ロンドン間に位置するエセックス州の田舎で育つ(12世紀から続くマーケットで有名な中世の小さな街サフロン・ワルデン=Saffron Walden)。
バイクが欲しかったのは、技術に対する関心から。
16才になるや否やHonda SS50を購入し走り始める。
大学ではエンジニアリングを専攻し、ディプロマを取得。
その間、バイクのコレクションは次々と変化を遂げた。
SS50の次はHonda CB200:本当に大きなステップアップだった。
このバイクにエースバーと2in1エキゾーストを取付け、当然ペイントも施した:最初は当時愛読していたチョッパー雑誌の影響を受けたが、最終的にはそれよりずっと上品なメタリック・ダークブルーとなった。
その次のバイクは1962年モデルTriumph 3TA, Honda CB400T, Suzuki GT500, 1968 年モデルBSA D14/4 Bantamスポーツや、Hondaの 175 cc及び 200cc ツインモデルの数々だった。
そのうちの1台 (Honda)で、フランス、スイスへのツーリングを初体験した。
![Guided motorcycle touring holiday in Europe contract motorcycle designer -](images/contact ian/katana.jpg)
1000cc カタナの希少な一台:量産レーシングバイク承認用に製造され、スライド・キャブレター付、1100ccバージョンと同出力にチューニングされたモデル。
ようやく趣味に費やすお金が増え、バイクをさらに数台購入:試し乗りと、以前売ってしまったバイクの全てを再び買い揃えるのが目的だった。
そのうち、現在まで持ち続ける価値があったのは、このドゥカティだけ。しかし一番後悔したのは、リックマンを売ってしまったこと:堅実なハンドリング、最高質のクラフトマンシップ、優れたルックスを持ち、さらに大変稀なモデルだからだ。
次に買ったのは、フューエルインジェクション搭載Kawasaki GPz1100 Unitrakだが、本当に欲しかったモデルではない。
Honda CB250RSシングルはどうかって?このモデルはHonda Hawkに買い換える必要があり、そのHawkは今でも持っている。
これらのバイクも、実は他の趣味と競合・共存させる必要があった - 特にマウンテンバイク:まず、鋳造マグネシウムフレームのKirk(日本ではARAYAマディフォックスとして知られている)。
その後は、カーボンファイバー製スイングアームを装備したキャノンデールSV1000 などだ。また、キャノンデールR700タイムトライアルバイクで、数々の地元のトライアスロンにも参戦していた。
そのうち、現在まで持ち続ける価値があったのは、このドゥカティだけ。しかし一番後悔したのは、リックマンを売ってしまったこと:堅実なハンドリング、最高質のクラフトマンシップ、優れたルックスを持ち、さらに大変稀なモデルだからだ。
次に買ったのは、フューエルインジェクション搭載Kawasaki GPz1100 Unitrakだが、本当に欲しかったモデルではない。
Honda CB250RSシングルはどうかって?このモデルはHonda Hawkに買い換える必要があり、そのHawkは今でも持っている。
これらのバイクも、実は他の趣味と競合・共存させる必要があった - 特にマウンテンバイク:まず、鋳造マグネシウムフレームのKirk(日本ではARAYAマディフォックスとして知られている)。
その後は、カーボンファイバー製スイングアームを装備したキャノンデールSV1000 などだ。また、キャノンデールR700タイムトライアルバイクで、数々の地元のトライアスロンにも参戦していた。
ホンダでの19年間は、「飯のタネ」的モデルも含む数々のエキサイティングなプロジェクト に参画した。
欧州各地への出張はもちろん、日本も度々訪れ、時には米国やブラジルへの出張もあった。
その多くのケースがリサーチ活動だったため、デイトナ・バイクウイークや、マン島TTレース等を訪れる機会もあった。
その後ホンダは、ドイツ研究所における全てのデザイン及びリサーチ活動を停止。よって、私は最後の1年半の間、イタリア・ローマ研究所のデザインスタジオで勤務することになった。
これはもちろん、ワイフのブリギッテや(彼女と共に自力で)修復中の我が家のことを考えれば、全く好ましい状況ではなかった。
そこで、独立し「ザ・クランクケース」を設立しようと思い立ったのだ。
欧州各地への出張はもちろん、日本も度々訪れ、時には米国やブラジルへの出張もあった。
その多くのケースがリサーチ活動だったため、デイトナ・バイクウイークや、マン島TTレース等を訪れる機会もあった。
その後ホンダは、ドイツ研究所における全てのデザイン及びリサーチ活動を停止。よって、私は最後の1年半の間、イタリア・ローマ研究所のデザインスタジオで勤務することになった。
これはもちろん、ワイフのブリギッテや(彼女と共に自力で)修復中の我が家のことを考えれば、全く好ましい状況ではなかった。
そこで、独立し「ザ・クランクケース」を設立しようと思い立ったのだ。